このサイクロンは1970年の北インド洋サイクロンとしては6番目のもので、11月7日にベンガル灣中央付近で発生した後、勢力を強めつつ北上し、カテゴリー3ハリケーンにする勢力に達した。
11月12日には盛期となって風速 51m/s[1]となり、に東パキスタン沿岸に上陸した。
これによる高潮は沖合の島にあった村々に対して壊滅な被害を與えた。
の被害を出したのはタズムッディンで、人口167,000のうち45%以上が死亡した。
サイクロンはアンダマン・ニコバル諸島の広い範囲に雨をもたらした。
即ち9,000隻の沖合漁船が破壊され、近海漁師77,000人中46,000人が死亡した上、生存者の40%がな被害を受けた。
ポートブレアでは11月8日に130mmの雨量を記録し、島々で多數の洪水が発生した。
西ベンガル州とアッサム州南部でも広範囲に降雨があり、これらの州で家屋と農作物に被害をもたらしたが、中でも南方の地域ほど被害がきかった。
[3]11月12日にはカルカッタからクウェートにかっていた5,500トンの貨物船「Mahajagmitra」がこの暴風雨のため沈沒し、乗員50名全員が死亡した。
この船は沈沒前に遭難信號を送信し、ハリケーン級の風(ビューフォート風力階級12にする。
32.7m/s以上)に見舞われていると報告した。
[3][11]
災者は360萬人を超え、被害総額は8,640萬米ドル(1970年當時。
2007年換算で46,000萬米ドル)と推計された。
[15]
生存者によると現地では家屋の85%が全半壊し、中でも沿海部の被害が著しかった。
[16]漁業従事者の90%がきな損失をったが、これには次のものが含まれる。
[30]アメリカのPeace Corpsはボランティアを送ることを申し出たが、パキスタン政府によってすげなく拒絶された。
この沿海地方は蛋白質摂取量の80%を水産物に頼っていたのだが、てを合わせると同地の漁業能力の65%が嵐で破壊された計算になった。
農業への被害も様に激しく、6,300萬米ドルの農産物が失われるとに28萬頭の畜牛が死んだ。
[9]嵐から3か月過ぎた時點で人口の75%が救援隊員からの食料援助を受けており、15萬人以上が食料の半分を援助に頼っていた。
[17]
サイクロンが襲來してから10日の間に、パキスタン政府によって軍の輸送機一機と農薬散佈の飛行機三機が救援活動に割り當てられた。
[27]パキスタン政府は西パキスタンから軍用ヘリコプターを振りけることはできないと述べた。
理由として間に橫たわるインド上空の通過をインド政府が許可しないことを挙げたが、インド政府はこれを否定した。
[20]11月24日までには、パキスタン政府は災地での救援活動に11,600萬米ドルの追加予算を割り當てた。
[28]ヤヒヤー・ハーンは救援活動を指揮するため11月24日にダッカ入りした。
東パキスタンの為政者であるアシャム海軍中は軍の動きが鈍いとの指摘を否定し、物資は一部のさな孤立地帯をき災地に行き渡りつつあると述べた。
[29]
アメリカ合眾國大統領リチャード・ニクソンは災者に食料その他の物資を送るため1,000萬米ドル(1970年當時、2007年換算では5,300萬米ドル)の支援金を割り當て、また米國の駐パキスタン大使はパキスタンに対して「あらゆる手段で東パキスタン政府を支援する」と約束した。
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[40]
米國政府はまた多數の毛布、テントやその他の物資を送った。
ヘリコプターはネパールで現地支援に當っていた2機と米國本土から4機の計6機が東パキスタンに送られた。
[41]海路ではおよそ20萬トンの小麥が米國から災地へ輸送された。
[34]11月末には災地で計38機のヘリコプターが行動していたが、內10機は英國のものであり、10機は米國のものだった。
また米國人は50隻、英國人は70隻の小型船舶を物資輸送に提供した。
[37]
CAREはパキスタン政府に物資分配を委ねることを嫌い、サイクロン襲來から一週間後に同國への物資輸送を停止した。
[33]しかしながら1月には、彼らはセメント・ブロック製の住居24,000戸を120萬米ドル(1971年當時、2007年換算で610萬米ドル)で建設することで合意した。
[34]米國はパキスタン政府が援助をどう使うかの意思決定に遅れを見せていることに疑問を持ったため、アメリカ合眾國議會から支出された750萬米ドル(1970年當時、2007年換算で3,970萬米ドル)の支援金を3月時點で交付していなかった。
この資金の殆どはサイクロンに対する避難の建設と住宅の建に充てるよう用途を定められていた。
[30]アメリカのPeace Corpsはボランティアを送ることを申し出たが、パキスタン政府によってすげなく拒絶された。
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[37]
イギリス海軍の揚陸艦イントレピッドと空母トライアンフを中心とする任務部隊は救援活動を支援するためシンガポールを発ちベンガル灣にかった。
部隊は救援チームと物資に加えて8機のヘリコプターと8隻の上陸舟艇を輸送した。
[40]艦隊の現地到着に先行して2機のヘリコプターと50名の兵員が送り出され、災害狀況の調査と救援活動に當った。
[42]イギリス任務部隊は11月24日にパキスタン沖合に到着し、ちに650名の兵士が上陸舟艇をいて沖合の島々に物資を分配しめた。
[29]イギリスのDisasters Emergency Committeeによる訴えにより東パキスタンにおける災害救助のため150萬ポンド (1970年當時、2005年換算では3,300萬ポンド)の資金が集められた。
[37][43]
カナダ政府は200萬ドルの援助を約束した。
フランスと西ドイツはヘリコプターとに130萬ドル分にする様々な物資を送った。
[37][42]教皇パウロ6世は極東訪問の際にダッカに立ち寄ると表明し、人々に慘事の犠牲者のため祈るよう促した。
[44]バチカンは後に救援として10萬ドルを寄付した。
[37]イタリアとスイスにおいては、初期の衝撃の後多くの人々は慘事への関心を失ってしまった。
ニュースレポートを見る限り、人々は慘事を遙か遠い世界での出來事と看做して自己の責任は無いものと捉えた。
11月の末にイタリア人は救援物資のため5,500ドルを寄付した。
[37]1971年の初めにはソ連のヘリコプター4機が災地で活動中であり、被害の激しかった地域に物資を輸送していた。
ソ連の航空機はかつてベンガル人から不評を買ったことがあったが、災害後に活動していたイギリスとアメリカのヘリコプターと入れわる形で活動した。
[34]

